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責任
多くの書物にあるように、『責任』は英語で ”Responsibility” であり、これは “response”(反応)と “ability”(能力)が合成された言葉だ。
つまり、出来事に対して『反応する能力』ということになる。
 
多くの人が『責任』という言葉を聞いて思い浮かべるのは、記者会見で要職にある人が深々と頭を下げている姿や辞任や降格・減俸に追いやられることであろう。
江戸時代の武士であれば切腹をし、平安時代の貴族であれば島流しになるのと同様の状態を意味している。
 
『反応する能力』と比較すると、大きな違いが感じられる。
日本の『責任』は、当事者の失態や失敗による『引責』、『責任をとる』の意味合いが強く、「責任者」が持つべき『責任』を的確に表現していない。
これにより、多くの混乱が生じている。
 
責任ある者は、正しい『反応する能力』を身に着けるように努力しなければならないし、責任者を選ぶ際には、『引責』できる能力ではなく、正しい『反応する能力』をする人を選ばなければならない。
 
自己責任も同様に、自分の言動に対して『引責』する能力を云々するのではなく、正しい『反応する能力』を意識することだと思う。
 
この国の明るい将来のためには、誰しも正しい『反応する能力』が不可欠だ。


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責任 | Comments(0) | TrackBack() | 雑記
仕事の満足
先日、知人と「家族のためにもっと稼ぐことが出来るか」というようなことを雑談した。

それは、彼の「知り合いから『家族のためなら、もっと働いて稼ぐことが出来るだろう。』と言われたが、どう思う?」という言葉から始まった。
私自身が、このセリフを浴びせられたら鼻白むだろうし、返す言葉がない。おそらく、世のお父さん達のほとんどは、そうであろう。

私は、しばし黙考し、「たぶん仕事に対する気持ちの上での満足が充分で、経済(稼ぎ)の満足を埋めているからじゃないかな。」と、乱暴にも結論を出してしまった。ちょっと補足をしたい。

仕事に対する気持ちの上での満足は、経済の満足と必ずしもリンクしていない。
記号で書くと、 気持ちの上での満足 ≠ 経済の満足

例えば、画家が、「うむ。思いどおりの作品が出来た。」と喜んでも、経済的な評価を受けたのは死後、ということはよくある話。
サラリーマンとて同じ。「完璧なプレゼンテーションだった。」と上司と喜びを分かち合っても、給与は据え置き。
記号で書くと、 気持ちの上での満足 > 経済の満足

独身であれば、”自分も満足。報酬を出してくれる会社や人も満足”のWin-Winの関係が成立するが、ここに自分の稼ぎに期待している家族が入ると、Win-Win-Winの関係を作ることを考慮しなければならなくなる。
家族の満足を満たすために、報酬を出してくれる会社や人が増額してくれるはずもない。
必然的に、「もっと稼がなければ・・・」となるのだが、仕事に対する気持ちの上での満足と経済の満足とがリンクしていない場合は、自分にとって好ましくない、つらい、やりがいが少ない仕事をすることと引き換えに、経済の満足を求めなければならない。 なんか気乗りがしない。 グジグジ・・・
記号で書くと、 気持ちの上での満足 < 経済の満足

この時に、2つ(もっとあるかもしれない)の選択肢が生まれる。
1.経済が不足する期間だけする。
2.気持ちの上での満足 = 経済の満足 になるように、仕事に ”やりがい” を見いだす。

そもそも、仕事はこういうものかもしれない。
原始時代に、槍や弓矢を片手に狩猟に出る男たちの前には危険や困難がいっぱいで、捕獲できる保証すらなかっただろう。それでも、家族のため、生きていくために気勢を上げて出て行く。

「やだな」と思う仕事の中に、 ”気持ちの上での満足” がきっと見つかる。
「上司との人間関係がつらいな」と思う仕事の中に、 ”気持ちの上での満足” がきっと見つかる。

もうちょっと頑張ってみよう! お互いに。


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こだわり
寺院で使われる、和蝋燭(わろうそく)の職人の仕事をぶりを収めたビデオを見たことがある。

機械を一切使わず、手作業で一本一本塗り固めていく作業を何回も繰り返していく、根気と集中力が必要そうな仕事だった。
一日の仕事で、あまり沢山の蝋燭を作ることが出来ない。
それでも、昔から伝わる方法を続けているそうだ。

それは、”先祖から受け継いだ伝統を守るため” だけではない。
実際に蝋燭に火をつけてみると、手作りの和蝋燭の炎はゆらゆらと揺れることがなく、一様な明かりを作り出すことが出来るというのだ。こだわりを感じる。

このこだわりは、作り手の「勝手気まま」なものではなく、使う人のことを思っていることに素晴らしさを感じる。

反対に自分の欲得から出たこだわりは、みっともなく醜いものではなかろうか。

あなたには、こだわりがありますか?
それは、前者のこだわりですか? それとも後者のこだわりですか?



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自分らしさ
最初に「・・・らしさ(い)」について考えてみたい。

何げなく’男らしさ’、’女らしさ’、’子供らしさ’、’日本人らしさ’などの言葉を使っているが、これらの言葉が何を指しているのか不明確な場合が多いと思う。

あなたが思う’男らしさ’は何ですか?
言葉づかい?
しぐさ?
体格?
それとも、発達した上腕二頭筋?

恐らく様々な条件を思い浮かべることができるだろう。
しかし、あなたの親兄弟や友人が思い浮かべる条件とすべて一致するとは思えない。
なぜならば、それらの条件のすべてが思考によるものだからだ。
思考は、人それぞれによって異なり、同一人物であったとしても、刻々と変化をするものだ。

では、’自分らしさ’とは何か。
これも他の「・・・らしさ」と同じで、人それぞれのとらえ方が異なり、同一人物であったとしても、刻々と変化をしている。

なのに多くの人が’自分らしさ’を求め、’自分らしさ’を守ろうとしている。
『こんなのは、私の生き方じゃない。もっと私らしい生き方があるはずだ。』と思い、『いつも笑顔を絶やさないのが’自分らしさ’だから、どんな時でも負けずに笑顔を保つんだ。』と思う。
まるで、’自分らしさ’の呪縛にはまったように。

環境に左右され易いのも’自分らしさ’。
違う生き方を求めるのも’自分らしさ’。
笑顔を絶やさないのも’自分らしさ’。
笑顔を絶やすまいと頑張るのも’自分らしさ’。
時に怒ったり、涙を見せるのも’自分らしさ’。

全部 ’自分らしさ’!! 

私達が求めたり、守るべきものは’自分らしさ’という曖昧なものではなく、やりたいと思う行動ではないだるか。

震災後に何回も目にしたACのCMの中で、弱者へのいたわりを促すものがあったのを覚えているだろうか。
妊婦に席を譲る。老人に手を貸しましょうという内容のCMだ。
実によく心の内の変化を表している。

見て見ぬふりをしてしまった「罪悪感」。
手を貸そうかどうか迷う「ためらい」。
思いきって声をかける「勇気」。
そして、思考を実行に移す「行動」。

「行動」は、思わず目をつぶる等の反射以外には、思考が前提になるという。

従って、移ろいやすい思考よりも、変化の少ない「行動」に目を向けて自分を見つめなおした方が良さそうだ。

他人が『君らしいね。』という場合、見えないあなたの思考ではなく、実際に見える「行動」で評価する。

つまり、あなたの中で刻々と変化する思考も’自分らしさ’だが、表面上の’自分らしさ’は、あなたの「行動」だということが言える。



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自由意志
人は生きていく中で多くの選択をしている。就職や結婚に限らず、日々の生活の中で選択を重ねている。
目覚めて時計を「見る」、「見ない」の選択。「起床する」、「起床しない」の選択。着替える服を選ぶうえでの選択。「トイレに行く」、「トイレに行かない」の選択・・・
数えるのが面倒なくらいの選択をしている。

その内の多くは、習慣によって特に意識することなく選択を行っている。それだけに習慣の持つ重みを感じざるをえない。自分自身や社会にとって好ましくない選択をする習慣を持っていると、選択を重ねるたびに状況が悪化してしまうからだ。
普段意識していない習慣による好ましくない選択を意識することは困難かもしれないが、とても大事なことだと思う。

「ああ、私はこういう場合にこういう選択をしてしまうんだな。」と意識し、認めることによって対処の糸口が見えてくる。
自分の敵も味方も自分の内側にいる。“克己心”という言葉があるが、なにも克服するまでの必要がないように思う。「悪い習慣だな。悪い選択だな。」と認めるだけで十分。
変に克服しようとすると、自己憐憫や自己否定につながってしまうかもしれないからだ。
そもそも悪い選択かどうかを判断することも難しいのだから。

いずれにしても、日々多くの選択をしている。意識していようが、意識していまいが自由意思に基づいて選択をしている。
「私は親を選んでいない。だから自由意思なんてないんだ。」という考えを持っている人もいるが、少なくともあなたの母親があなたを生むという選択によって、自動的にあなたを子とする選択を自由意思によって行っている。決して本能によってではない。

社会の中では、多かれ少なかれ誰かの自由意思による選択によって不自由を強いられる。
首相になりたいとあなたが言っても、あなたを首相に選ぶか選ばないかは選択権のある人たちの自由意思による。
東大に入りたいと思っても、入学させるか、させないかは大学組織の自由意思による。

一見「不自由」、「理不尽」と感じても、その裏にはあなたや誰かの自由意思がある。
他の誰かの選択に任せるのがイヤだから何とかしようと挑戦をする。
言ってみれば選択権の争奪戦だが、直接誰かと戦うわけではない。東大があなたを選ぶのではなく、あなたが東大を選べるようになる戦いだ。つまりは、「さぼりたい、楽をしたい」と選択する自分との戦いだ。

自由意思による選択を大いに楽しんでみませんか?結局選択をしているのだから・・・
『本当に不可能なのは、選択しないということを選択することだ。』という言葉もあるらしい。
流されることなく、自分で選択をしてみよう!




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セルフイメージ
少し難解だけれども、とても大切なことなので、数回に分けて書いてみたい。

セルフイメージは、通常「自己像」と訳されているが、『自分評価』としてみることにする。
自分という存在は、過去・現在・将来にある(あった)。その全ての時間に存在する自分を、「自分で評価する」ことによって出来上がったものが『自分評価』だ。
だから、『自分評価』は、顕在意識・潜在意識に残っている過去の経験と他人からの評価、そして自分の感情に大きく左右される。

例えば、「私は、A型の特徴である几帳面さを持っている」と思っているような場合、A型の特徴が、本にそのように書いてあったり、テレビでもそう言っていたからという記憶。友達から「A型らしい性格だな」言われた経験とが作り上げた『自分評価』だと言える。
「よく調べてみたら、B型だった」などという笑えないようなこともあるらしい。

『自分評価』は、高いほうがいいに決まっている。
「俺は、最低な男だ! 何をやっても上手くいきっこない。」なんていう思いを誰しも持ちたくないと思っている。
しかし、実際のところは、これと似たような『自己評価』を割りと平気でしている。

「俺、数字が苦手でさ・・・」、「私、パソコンを一生かけても使いこなせないと思う」、「おやじも、おじいちゃんも癌で死んだから、きっと俺も癌で死ぬはずだ。」、「順調すぎて怖いよ。なにか悪いことが起きるんじゃないかな?」という具合に、『自分評価』を自分で下げてしまうことも頻繁にありませんか?

世間は、あなたの『自分評価』を下げる材料がいっぱいある。
ただでさえ下げる材料があるのだから、顕在意識の中で自分を高く『自己評価』しなければならない。
これは、「高慢になれ」とか「うぬぼれろ」という意味ではない。
自分が自分であるためのアイデンティティーを持ちなさい、ということだ。

自分をさげすむのは、止めよう! 謙遜と卑下とは、似ているけれども違う。

じゃ、また今度。




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ほどほど
『人並みにおごれや』
誰もが知っている、3の平方根を覚える時につかう言葉だ。

この場合の「人並み」は、人として当然の水準を示す言葉だが、時には、『人並みでいいや』などそこそこの水準を言い表す場合にも使われる。
中流意識というか、人に遅れまいとするだけの、とても大志とは呼べないさもしさを感じさせられる。

なにかに打ち込みたい気持ちが有りながらも、失敗を恐れたり、気力が減退した生ぬるい今の世相にピッタリな言葉の一つだと思う。

明日に希望が持てないのか、それとも明日が今日と同じくらいに安全で安心できる日だと思っているのだろうか・・・
今日に執着せず、ものごとに全力をぶつけられずに、時間(人生)を無駄に費やしている。

すべてが『ほどほど』。みんなに遅れず、あくせくしないで要領よく。
そんな毎日を過ごしていませんか?

飢餓に苦しむ人達には、むさぼるように喰う。「腹八分目」などという思いは無い。
明日、食べられる保証がなにもないからだ。
プロスポーツのルーキーには、がむしゃらに動く。手抜きをしようなどという思いは無い。
明日、試合に出してくれる保証がなにもないからだ。

あなたには、明日が保証されていますか?

イギリス人サミュエル・スマイルズは、自助論のなかで「天は自ら助くる者を助く」と書いている。
こつこつと時間を惜しまず、かつ無駄なく(要領よく)仕事に、勉強に、家族との団らんに、友人との交遊に、子育てに・・・
きっと満足感のある毎日を、人生を過ごせます。

たぶん余裕は、この段階で感じられるのではないでしょうか。
「人並みのことしかしていませんよ・・・」と。




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マイペース
「マイペース」。耳に心地のよい言葉だけれど、これについて考えてみたい。

多くの人は、マイペースで動くことが出来ないことに不満を覚える。
学校や会社のスケジュールどおりに行動しなければ、落ちこぼれたり、成績が落ちてしまう恐れがある。
友人や同僚と行動を共にし、話をあわせないと「つまらないやつ」といわれる恐れがある。

つまり、「遅れないように」、「仲間はずれにされないように」と世間に歩調をあわせているのが実情だ。
100%をあわせ続けるわけではないが、とても窮屈で疲れる。
しかし、恐れを打ち消すために歩調をあわせる。

こう考えてみると、世間に歩調をあわせるための代償として「マイペース」を切り売りしているようになるが、果たしてそうだろうか?
究極の「マイペース」は、世間から隔絶された奇人・変人ということになるのだろうか?
けっしてそうではないと思う。

「マイペース」には、「積極的なマイペース」と「消極的なマイペース」があると思う。
「積極的なマイペース」とは、自分の目的・目標に対して、時には坦々と、時には無我夢中に周りの環境にあわせて安息を得ながら進んでいくことと仮定する。
一方の「消極的なマイペース」は、自分の感情や周りの環境に翻弄されて、自堕落に安逸をむさぼり停滞することと仮定する。

同じ「マイペース」という言葉で表現されても、安息と安逸では大違いだ。
本当に歩調をあわせるべきものが何なのかを考えるべきではないだろうか。




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視点
ものごとに行き詰っていたり、問題の解決が出来ない時は、往々として独りよがりになっている。
例えば、商品が売れなくて困っているときは、「どうしたら売れるだろうか」と売り手の視点だけで解決を図ろうとしてしまう。
経営の世界では、アドバイス、アンケート、ヒアリングなどによって、買い手や第三者の視点による多方向からの意見を取り入れてバランスをとっている。

就職活動をしている方や、新入社員として働いている方にとっても同様だと思う。
友人や同僚に聴くよりも、先輩や就職課の職員にアドバイスを求めるべきではないだろうか。視点が大きくことなるから。
本を読むのも一つの方法かもしれないが、本はあなたの悩みを聴いてくれない。

第三者の意見を聴くことは、きっとあなたの領域を広げてくれる。
四畳半の視野(考え方)から徐々に広げていくためには、聴き上手になること。
勇気を出して聴いてみよう。
誰もあなたを笑ったりしないから。

(考え方)の引きこもりにならないために・・・




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コミュニケーション能力
以前、生命保険会社に勤めていたときに、” KASH ” というものを教えてもらった。
Kは、Knowledge = 商品知識を主とする知識全般
Aは、Attitude = お客様への態度、姿勢、身なり
Sは、Skill = 話し方、説明の仕方、クロージングなどの技術
Hは、Habit = 早起き、親切などのよい習慣
この四つを身につけると(K)CASH すなわちお金が手に入るという話だった。
いずれも持って生まれた才能よりも、日々の鍛錬で身につけることができるものばかりであり、より高い収入を期待させることができる。
なるほどと思わされた。

セールスという枠を取り払ってみても大切なものばかりだが、Knowledgeの代わりに Communication を入れてみたい。

現代人は、徐々にコミュニケーション能力が不足してきていると言われて久しいが、なかなか満足がいく状況になっていいないのが実情だ。

核家族化による幅広い世代間の交流不足、アパートやマンション暮らしによる近所づきあいの減少、放課後や休日の子供同士の遊びの減少などさまざまな要因が考えられているが、これらを解消することはとても困難だ。

それよりも、もっと身近な方法がある。家族間のコミュニケーション、特に親と子の間のコミュニケーションを充実させる方法だ。

前述のKASH もコミュニケーション能力も、最初は親から子へ伝えられる。
親が話す言葉から知識が与えられ、親を手本としたり躾を受けて態度や習慣が身につき、親の手本や教育によって技術が伝えられる。

コミュニケーション能力もそのはずだ。
にぎやかな家庭で育つと、にぎやかなコミュニケーション能力が身につく。
おっとりとした家庭で育つと、おっとりとしたコミュニケーション能力が身につく。
しかし、子供へのinput 、子供からのoutputが不足すると、コミュニケーション能力が未発達になってしまう。

子供たちや若者たちのコミュニケーション能力の不足を嘆くのであれば、まず大人からコミュニケーション能力を発達させるべきであろう。
飲ミュニケーションも結構だが、アルコールの力を借りずにコミュニケーションをとるべきではないか。

コミュニケーション能力は、伝える能力であるとともに受け取る能力でもある。
単に言葉のキャッチボールをするだけではない。言い換えれば、相手の思いをくみ取り、相手が受け取り易いように必要を伝える愛情のやりとりではないだろうか?




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